2024年08月03日
2023年12月06日
たんぽぽの家では、Art for Well-beingとも連携して、障害のある人×NFTによる仕事づくりを考える「Good Job! Digital Factory」という取り組みをスタートしています。
本プロジェクトの一環としてブロックチェーンやNFTについて学ぶ勉強会を継続して開催しており、7月には弁護士の水野祐さんをお招きしてお話を伺いました。
クリエイティブ・コモンズ・ジャパンの理事としても活動し、法とアートをめぐる新しい関係性や仕組みづくりを提案され続けている水野さん。NFTアートの法的観点から見たユニークさや現状、そして課題までたっぷりと語っていただきました。長文のレポートですが、ぜひご覧ください。
目次
水野 祐(みずの たすく)
法律家/弁護士(シティライツ法律事務所)
・Creative Commons Japan理事
・Arts and Law理事
・九州大学GIC客員教授/慶應義塾大学SFC非常勤講師
・グッドデザイン賞審査員
著作
・「法のデザインー創造性とイノベーションは法によって加速するー」(フィルムアート)
・「新しい社会契約(あるいはそれに代わる何か)」(WIRED連載)、など
水野:NFTやブロックチェーンやWeb3の話をすると、そもそもの説明から始まることが多いので、みなさん辟易とされるかも知れません(笑)
ただ、この話題について語るときに、その人がどういう視座で語っているのかというのが大事になってくると思いますので、まずは私なりのNFTに対する見立てについてお話したいと思います。これについては議論があっていいと思いますが、私はこう考えるということですね。
まず、非中央集権や分散型という技術について。こういった技術はインターネット以前からもありましたし、これからもたくさん出てくるだろうと思います。まずはもちろんインターネットがそうですし、ブロックチェーンの前提となるP2Pの技術や、ハッシュ関数を含む暗号技術だとか、大小様々な規模で技術が発達してきています。
なので非中央集権の技術自体は古くから進化し続けてきているわけで、その中でも近年トレンド化しているのがブロックチェーンであり、Web3であり、NFTであったり、という大きな流れの中の事象に過ぎないかな、という認識でいます。なので、私自身Web3とは何かという議論は大好物ではあるんですが、それなりに色んなことを言っている人がいますし、私自身はこだわりがなく、非中央集権的分散型技術の総体による社会システムの変化、あるいは次世代インターネットの総体がそう呼ばれているという認識です。
この、総体としてのWeb3的な社会を実現するために、4領域ほど重要な点があると思っています。
1つ目が、お金やそれを出し入れするウォレット的なもので、具体的に現在はビットコインや暗号資産、仮想通貨が広がりを見せていると思います。
2つ目はコンテンツ・データで、NFTはここにおいて、キラーアプリとは言いづらいですが重要な技術として広がりを見せていると思います。
3つ目、ID・認証についてはまだ暗中模索的な段階ですが、いわゆる分散型IDと言われる技術が社会を分散化させる要素として重要視されています。
4つ目の意思決定・バランスというのは組織という言い方をしてもいいと思います。今回の中心テーマではないですが、ブロックチェーンを考える上でのDAOのようなものが可能性として考えられると思います。
このように、4領域が分散化・民主化していくと分散型の社会が現実化してくるのではないかと私は考えています。
NFTも分散型技術の一つの例ですね。NFTの何が特徴かというと、ブロックチェーン技術を前提として、唯一性・耐改ざん性を強く打ち出せるという点。またデジタルデータを管理する技術として、優位性が認められると思います。
私は、NFTというのは連綿とつながっている分散型の技術の中の一つの顕在化であり、それ以上でもそれ以下でもないと認識していますが、その中でもエポックだったのは「デジタルデータに資産性を持たせられる」という点だと思います。経済的価値を生み出しやすくなる、というのが正確でしょうか。
あとは、「NFTアート」と混同されがちなのでご注意いただきたいのですが、NFT自体は作品の制作手法ではなく、単なる技術やメディウムであって。アートとの関係でいうと、NFTというのはあくまでアートを入れる器で、作ったり発行したり広めていく技術、と捉えるのが一般的かなと思いす。コンセプチュアルアートの領域で考えると、NFTの作り方自体をアート作品化することもありうるかと思いますが。
――確かに、現代アートの領域では、アート的な、コンセプチュアルなNFTの使い方みたいなものも追求されている感じですよね
水野:そうですね。いわゆる「コントラクト芸」などとも呼ばれていますけど(笑)。NFT自体が歴史の中で新しい技術ではあるので、そのNFTの特性を利用したコンセプトが打ち出せるものというのが、アートして「旬」というか、美味しい時期ではあるのかなと思っています。
一方で、「ジェネラティブアート」といったものに関しては、どちらかというと制作手法というか、美学的な手法の話かなと思っておりまして。コンピュテーショナルなアートの作り方として、こっちはこっちで広がりを見せているので、どうしても混同してしまうところが多くてややこしいのですが。あえて分けるならそういう言い方ができる思います。
ここから権利の話になっていきます。まずは、私が「準所有」という呼び方をしている事象についてお話します。
現在、NFTは取引の対象にもなっていますが、法的にはNFTを厳密な意味で所有することはできないんですね。少なくとも日本や、多くの諸外国の法律では、所有権の対象は有体物に限られているんです。NFTの対象となるトークンやデータというのはあくまで情報という無体物なので、所有権が発生しません。
では、NFTの取引とは何なのかというと「秘密鍵などの情報にアクセスできる権利を付与されている状態」にすぎない、と法律的には考えざるを得ない。でも、NFTアートは高額で取引されたり、一種のブームとして売り買いされていて、皆NFTをウォレットに収めて自分の家に展示したり、SNSのアイコンとして使ったり、人によってはTシャツにしたりするなど、多様な楽しみ方ができるんですね。
で、そこには、ある種かぎかっこ付きの「所有感」というものが醸成される場合が出てきているわけです。さっぱり言えば、財産的価値や愛着をデジタルデータに感じられるようになっている、ということが顕在化してきています。
では、そもそも「所有」ってどういうことなのかをさかのぼって考えると、所有制度が確立されたのは近代からになります。近代的所有制度がどのようなものかというと、「有体物には唯一性もしくは有限性があり、希少性があるということを前提にして、それの使用・収益・処分を全面的に支配する排他的独占権を付与することで、そのものに価値を与える/ものの価値を上げる」というようなルールになります。
つまり、近代的所有制度は資本主義を駆動してきた原理、とも言えるわけです。リアルなものの価値を最大化するために編み出された法的なルールと言うこともできると思います。この所有権制度ができたことで、ものの価値を高くできるようになり、それをまた独占したい人たちが出てきたり、売買したり、ということで資本をどんどん生み出して、流通していくようになりました。
一方で、情報(データ)というのは簡単にコピー&ペーストができてしまうので、閉じ込めて管理が出来ないものと考えられてきました。なので当然、データは所有できないというのが法的な性質なんですね。
で、NFTというのは、データではあるけれど、唯一性、希少性を与えることが出来る技術と考えられます。そして、そうなってくるとデータに所有権と同様の権利を設定できる可能性を持っています。所有権と同じような排他的独占権というのが本当にNFTで認められるのかというのはまだ議論がほとんどされていない領域なのですが…。実は、民法の解釈をこねくり回して、民法における「有体物」の概念にNFTを含めるべきだ、という風に論じている人も、私の知る限りでは1人だけいらっしゃいますが、まだそのレベルで、基本的には有体物にNFTは含まれないというのが当たり前の常識となっています。
ただ、今までの無体物とは異なる唯一性、あるいは希少性を与えられる技術である、ということも間違いないわけで。そういったことを加味すると、新しい時代の所有であると観念することができるのではないか、ということで、「所有ではないがそれに準じるもの」ということで「準所有」という新しい言葉を作って説明をしているところです。
「準」というのは英語で言うと「quasi」ですけど、例えば法律の概念で言うと所有と類似する「占有」というものがありますが、これに付随した「準占有」という概念があったり、あるいは「委任」という概念にも「準委任」という概念が付随していたりするので、「準○○」という言い回しはわりとあるんですよね。「準所有」は流行ってはいないのですが(笑)
次に、著作権制度とNFTがどういう立ち位置にあるか、という側面から見ていきたいと思います。
そもそも著作権、知的財産制度がどのようなものか歴史をさかのぼっていくと、所有権以降、活版印刷技術が出てきた時代まで戻ることができます。活版印刷によって聖書が印刷できるようになった時に、その流通をコントロールしたい、商売にしたいという考えから版権という考え方が生まれたのが起こりと言われています。なので、知的財産権というのは比較的新しい権利なんです。
で、表現という情報をコントロールしたいと考えた時に、法的に「コントロールするための概念」として参考にしたのが所有権だったわけです。ですので、所有権を含む知的財産権は所有権をまねした権利なんですね。情報に独占権を疑似的に付与すれば、つまり独占権を特定の人に認めてあげれば、色々コントロールできるようになるし、財産的にも売り買いしやすくなるんじゃないか、と考えられたわけです。
話は少し変わるんですが、著作権というのは「表現の自由に資する」と思っている方がいらっしゃるんですが、法的原理としては真逆で、表現の自由の例外なんです。
近代国家においては、表現の自由は最大の人権であり、できるかぎり表現を制限してはならない、とされているんですが、著作権という制度は歴史的になぜかそれをいとも簡単に制約してしまうんです。
この、著作権という表現の自由を制限する権利を認める根拠として言われているのは、独占権を付与することによって、作家の創作にかかるコストを回収したり、財として認めていくことで次なる創作を奨励していく、というためだ、という説明がされています。要するに、著作権というのは作家が資本を回収する手立てを渡す、その前提として作品(情報)に独占権を付与するものだ、というのがメジャーな見解なんですね。
一方で、インターネット時代も20年~30年経った現在においては、著作権制度の悪い点や弊害も指摘されつくしています。1つは、情報を特定の人に独占させることにより、情報というものの持つ公共性や共有性といった性質とバッティングしてしまうという面。これによって、インターネット時代のデータシェアリングの考え方や、コンテンツの流通を著作権が阻害しているのではないかと。これに対抗する形でクリエイティブ・コモンズといったものが生まれてきている訳なんですが。
アート作品の公共性をテーマにした「『レンブラント』でダーツ遊びとは―文化的遺産と公の権利」という本があります。ジョセフ・サックスさんという人が書かれたもので、「レンブラントの絵を買った資産家は、レンブラントの絵でダーツ遊びをしていいのか?」という問いを立て、アートを所有している人がアートを破損したり、隠したりすることはその公共性と相反するのではないかという論説を立てたものになります。アート作品の公共性を考える上では古典的な名著とされています。
このように、アート作品の公共性と著作権制度とは、バッティングしうるものとして考えられます。
他の著作権制度の課題としては、作者や貢献者に対する利益還元の仕組みがなかなかないという点があげられます。もちろん最初に作品が売れた場合には還元されますが、その後、転々流通してしまったあとに、通常の著作権では、その時のロイヤリティは作者は得られない。あるいは、二次創作において、その作品を利用された人やその作品のコントリビューター(作品に貢献した人)に利益還元がしにくいという点があったりします。もちろん契約で緻密に設計していけば不可能ではないのですが。
このような著作権の現状を踏まえつつ、NFTのプロジェクトにおいては、NFT化した作品データにCC0(no right reserve、権利を主張しないという意思表示。クリエイティブ・コモンズのライセンスの一種)を付与する、という取り組みが増えていった時期がありました。
NFT化してデータに希少性を生むことによって、それをライセンス化して直接稼がずとも、NFTデータを販売した時点である程度のマネタイズができてしまうんですね。それならば、作品はできるだけ多くの人に鑑賞されたり、使ってもらったりする方が、作品の認知度は上がり、ファンを獲得できる。それによってNFTデータ自体の価値も上がっていくのではないか、と考える人たちも出てきた。
そしてまた、ある意味作品の美学的な価値がさほど必要でないプロジェクトにおいては、NFTをコミュニティの会員証として機能させる、といった手法も取られはじめました。
ブライアン・フライという人が2022年に「After Copyright: Pwning NFTs in a Clout Economy(著作権の終わり:影響力経済におけるNFTの強さ)」という論文を書いています。この人は知的財産権、著作権を専門とするアメリカの法学者で、「NFTは著作権の『終わりのはじまり』なのではないか」ということを述べています。
著作権制度というのは作家に収益が行くように疑似的な希少性によって独占権を認めていた訳ですが、NFTによって独占権を認めずとも作家が収益を得られるようになったという訳です。
After Copyright: Pwning NFTs in a Clout Economy | The Columbia Journal of Law & the Arts journals.library.columbia.edu
また、論文のタイトルにもあるように、「クラウトエコノミー」という考え方も生まれています。これは、影響力経済と訳されることもあります。
これまでのアート作品においては、その著作権の権利を強めることによって作品の価値を高めるという考え方だったのですが、インターネット出現以降は、できるだけ多くの人の目に触れて影響力をあげることによって、作品単体で稼ぐというよりは、その影響力でビジネスにつなげていくというような手法も増えてきている。そのような経済がクラウトエコノミーと呼ばれているのですが、NFTはクラウトエコノミーの中でこそ強みを発揮するだろう、というような言説がなされています。
この論文のタイトルにある「Pwning(パウニング)」というのは造語でして、「Pawning」というのはネットミームで「勝利する」「打撃を与える」という意味なんですが、これを「Owning=所有する」という言葉とかけて「Pwning=所有することで打撃をあたえる」というような意味で用いられています。
著作権における人工的な希少性というのはある種疑似的なものであって、他に作家の創作を奨励する方法があり、それが作品のオープンな利用と作家の収益や尊厳を両立できるならば、著作権制度はなくてもいいのではないかというような考え方も論理的にはおかしくないということです。
また最近は、所有権に関しても、独占権が強すぎて弊害が生まれているということが言われています。そもそも、所有というものは資本主義の根本原理なので、古くは社会主義や共産主義、コミュニタリアニズムの観点から、これについて見直しが必要だという定説は流行り廃りを行き来しながらずっと言われ続けているんですが。
数年前にグレン・ワイルという経済学者による「ラディカル・マーケット― 脱・私有財産の世紀: 公正な社会への資本主義と民主主義改革」という所有権制度に対する新しい提案をした本が話題になりまして、あとはマイケル・ヘラーの「グリッドロック経済―多すぎる所有権が市場をつぶす」という本も出版されたように、ここ最近は経済学者が所有権の弊害を主張するような議論が活発になってきているんです。
デジタル・デモクラシーによって多元主義を実現する:グレン・ワイル──特集「THE WORLD IN 2023」 AIやクリプトによって民主主義の基盤が破壊されようとしているなか、いま必要なのは、より多元的な意思決定やコラボレーションを wired.jp
そういう中で、グレン・ワイルが中心となって生まれた「Radicalxchange」というアメリカのNPOがあります。こちらは新しい社会制度を提案している団体なのですが、オードリー・タンやイーサリアム共同創設者のヴィタリック・ブテリンなど、キャッチ―なメンバーが名を連ねています。そして、G7関係のイベントで、ここのプレジデントの方が来日した際に対談させていただきました。
Radicalxchangeの活動の中で最も有名なのが、Quadratic Votingという投票権を分割して重みをつけて、多数決の是正をするという投票手法があります。RadicalxchangeのHPだと、Plural Votingのページの中で紹介されていますね。こういった風に新しい仕組みを提案している団体なんです。
RadicalxChange We are a community of activists, artists, entrepreneurs, and www.radicalxchange.org
このプロジェクトの一つにPlural Property(多元所有)というものがあります。それを実現するための一つの手段として、「Partitial Common Ownership(部分的共有所有権)」というのが注目されています。細かい説明をすると時間をとってしまうので、詳しくはこれについて説明したnoteの記事をご覧いただければと思います。https://note.com/embed/notes/n06408d7a6aff
簡単に説明すると、所有権を、著作権と同じように「権利の束」と考えて、そこの一部を流動化していく、というような考え方です。一部のお金持ちに有体物(例えば土地など)が所有されていることによって、そこが有効活用されないということが起きてしまうという課題に対して、もう少し分散化、流動化していくことを考えないといけない。現行の私有財産制度には「所有しても使わない」という非効率な側面があるので、それを分散化するための提案をしています。
所有権制度の見直しが、デジタルデータだけではなく、リアルな物にまでも及んでいる、ということをお伝えするためにこちらを紹介しました。
そして、ここから本題です。ただ、私自身はどちらかというとこれまでの話が思想的な面で面白いところだと思っているんですが(笑)。これからは現実面としてプラクティカルにNFTを説明していきます。
NFTの特徴を具体的に挙げると、まず言えるのが「法(契約)とアーキテクチャの双方を比較的自由度高く設計可能」ということです。(Good Job! NFTプロジェクトで協働している、株式会社TARTの)高瀬さんとかはComposabilityと言われていると思いますが、 拡張性の高さというのが一番の魅力かなと思っています。有体物のアートでも所有権や展示・利用方法について契約で設計は可能ですが、依然としてほとんど契約が定められておらず、単純な売買契約にとどまっています。なんなら契約書もない、みたいなことが多い世界です。
その中でも、経済性が高い作家の売買契約を扱う時には、「どういう場合は展示して良い」といった風に、著作権に含まれる展示権の範囲よりも細かい条件設定で契約書に記載して契約する、ということもあります。こういった事柄に関しても、NFTであればスマートコントラクトなどを活用することにより、設計がしやすいという面があります。
さきほど大井さんがおっしゃっていたようにNFTをどう設計するか、ということ自体がアート作品になりうる、といったことも含めて、コンセプチュアルアートにおいては、どういうルールをつくかってこと自体が作品になることが出てくるわけですね。そういう意味においても、ある種のアーティストにとってはNFTが良いメディウム、表現手段になることが納得できます。いわゆる絵や彫刻といったプリミティブな表現手段とはまったくちがいますが。ある種、現代アートのなれの果て、的な側面もあるのかなと思います(笑)
私の個人的な興味では、NFTのデータとしての希少性と公共性の双方を活かしているプロジェクトが面白いな、NFTの良さが活かされているなと思います。
NFTは、ライセンス契約の一種として冷静に見ると、発行手法、つまりアートをどう社会に広げていくかという、届け方のデザインという見方ができるわけです。そうなると、ライセンス範囲をどう設計するか、展示をどこまで認めるのか、営利利用を改編も含めてどこまで認めるのか、あるいは独自ルール(リアル作品との紐づけなど)をどのように作るのか、という様々なアイデアが検討できると思います。
逆に、個人的にはNFTアートをただエディションをつけて販売するだけだと面白くないというか。共有性とか、公共性といったものに踏み込まずに、これまでと同様に購入者に独占権を与えるような形だと、物足りなく感じてしまいますね。それがダメというわけではありませんが。
あとはロイヤリティとか対価還元の自動執行というところも、NFTの特徴であり、可能性だとは思います。
そういう意味では、NFTアートを販売する際には、作品の営利利用を許して、いろんな形で改変してもらいつつ、その改変の度合いをアレンジする、といった部分に条件を付けると、面白い見せ方や表現になる可能性があると思っています。
NFT自体の課題というのはまずたくさんあるんですね。そのなかでも、まず、法的性質の見極めを考えないといけないというのがあります。発行しようとするNFTに収益還元性といった経済的機能を持たせると、内容によっては金融規制に引っかかる可能性があります。我々弁護士の仕事は大概はここにあります。NFTアートにおいては、この表現と金融規制が架橋するというところが難しさではあります。とはいっても、だいぶ法整備も進んできていて。
収益分配について説明すると、NFTアートの収益が「集団融資スキーム持分」(金商法2条2項5号)にあたりうるかどうかという話なんですが、NFTアートの転売時のロイヤリティ分配機能は「有価証券」に該当しない、とされているんですね。これは、NFTを保有していることによる分配ではなく、作成したことによる分配のため、と説明されています。
あとは法律上、当然に収益分配を受領できる権利(不動産共有持分権、著作権共有持分権など)をNFT化した場合には、一定のライセンス料や賃料を払うというのは「有価証券」に該当しないとか。
こういったことは皆さんにはあまり直接かかわりのないところかもしれませんが、もし、NFTに「ユーティリティトークン」と呼ばれるような、様々なユーティリティを付与する、特にその中に「収益を戻す」といった経済的機能を持たせようとすると、かなり法的な手当が必要になります。なので、こういった機能を持たせたい時にはしっかりとリーガルチェックを通すことをオススメします。
例えば、キャラクターの原画をNFTで販売する際、そのNFTを発行する人がキャラクターを使った漫画作品をアニメ化して、そのアニメ事業で得た収益をNFT保有者に分配する、となると、集団投資スキーム持分に当たっちゃいますよ、となるんですね。
最後に「DAO(ダオ/Decentralized Autonomous Organization=分散型自律組織)」についてお話しします。DAOの定義も様々だと思うんですが、冷たく言えば単なるスマートコントラクトですが、その周辺にあるルールを包含して使われることもあります。
Web3というある種の理想を志向するうえでは、組織やガバナンスのルールというものは、今後緩やかに、分散させていく方向に変わっていくことが求められているところだろうなと思っていて。ただもちろん、私のように分散型のものに惹かれがちなタイプの人もいれば、一方でそんなに分散しなくてもいいんじゃないかと考える人もたくさんいるとは思うのですが…。
そういう意味では、DAOが大事というよりは、DAO的な思想・思考を持つことや、一部がDAO化していくことが大事なのかなと思います。
DAOと呼ばれるものが法的にどのような意味を持つのかについて、あまりまだ論文や通説があるわけではありません。ただ、DAOは会社のように登記できたり、法人株があるわけではないので、あえて言うなら民法上の組合・パートナーシップになることがほとんどですね。なので、いわゆる会社のように出資した人が有限責任を追う訳ではなく、何か事件や損害が起きた際には、構成員それぞれが無限責任を追うことになると考えざるを得ないと思います。ただし、総会の運営方法や財産の管理方法が定まっているなど一定の要件を備えた場合には「権利能力なき社団」という判例上認められた法人形態に該当させることができる可能性があり、実務的にはこの法人カテゴリーに該当させることができるようにガバナンスを備えておくことが大事になってきます。
また、DAO的なものをやる場合には組合になるので、他の組合と同様に組合組成契約(組合の中での契約)をどのように結ぶかが重要になってきます。この組合組成契約自体をスマートコントラクトで自動執行するのが本来のDAOなんですけども、現時点ではそこまでできるわけではないため、別途契約書が必要になってくる、といったことが起きがちだったりします。
また、事業収益を分配する場合には「有価証券」としての「集団投資スキーム持分」に該当する可能性が出てくるので、現時点ではやりづらさがあります。
ただ、DAOを立法的に従来の会社の一部として認めていく、あるいは全く違う類型を作る、とかという議論はありますし、アメリカでは従来のLLC(有限責任会社)の特別な類型の1つとして登記できるということを州法で認めている州も出てきたりしています。
今後この辺りがどうなっていくかは分かりませんが、現時点のまとめとしては、DAOというものは、そのままではやりづらく、その特性を活かした存在をつくることは難しいのではないかと思います。(終わり)