Art for Well-Being

Report

2024年12月24日

【レポート】ふりかえりオンライントークセッション:とけていくテクノロジーの縁結び| 2024年5月10日

「とけていくテクノロジーの縁結び」の経緯

Art for Well-beingの取り組みの1つとして、2023年度にスタートした<とけていくテクノロジーの縁結び~ALSの体奏家、ジャワ舞踊家、踊る手しごと屋、インタラクション研究者のコレクティブ~>。

チームメンバーは、進行性の難病ALSを発症した体奏家・新井英夫さん、たんぽぽの家のダンスプログラムもけん引されている、ジャワ舞踊家・佐久間新さん、踊る手しごと屋であり、新井さんのパートナーでもある板坂記代子さん、メディアアーティスト×インタラクション研究者・筧康明さんです。

*プロジェクトメンバーのプロフィールはこちら
https://art-well-being.site/report/979/#参加者プロフィール

今回レポートするのは、2024年5月10日に行われた、2023年度の活動をふりかえるオンライントークセッションの様子です。

*プロジェクトの経緯
2022年度
・2023年1月24日、2月14日 分身ロボットOriHimeを介してのダンス[レポート
2023年度
・2023年11月23日 第1回ワークショップ。初めてリアルで一緒に踊る[レポート
・2024年2月8日 テクニカルリハーサル。公開実験に向けて、実験1週間前に同じ会場で実施。佐久間さんはzoomで参加[レポート
・2024年2月15日 公開実験[レポート
2024年度
・2024年5月10日 ふりかえりオンライントークセッション。2023年度の活動をふりかえる[本レポート
・2024年6月29日 上映会&トーク「ダンス×ケア×テクノロジーの可能性を探る」
・2024年7月19日 公開実験に向けてのワークショップ。
・2025年1月12日 テクニカルリハーサル(予定)。
・2025年1月18日 公開実験(予定)。

*ドキュメンタリー映像
2023年度公開実験フルバージョンを含むこれまでのプロジェクトの経緯をドキュメンタリー映像にまとめ各地で上映しています(映像ディレクション・撮影・編集:丸尾隆一)。

ふりかえりオンライントークセッションの概要

▼日時
2024年5月10日(金)19:00~20:30

▼参加形態
YouTubeによるライブ配信

▼参加費
無料

▼情報保障
文字による情報保障を行います

▼登壇者
新井英夫(体奏家/ダンスアーティスト)
佐久間新(ジャワ舞踊家)
板坂記代子(踊る手仕事屋/身体と造形の表現家)
筧康明(インタラクティブメディア研究者/アーティスト/東京大学情報学環教授)
小林茂(博士[メディアデザイン学]・情報科学芸術大学院大学[IAMAS]教授)
一般財団法人たんぽぽの家 Art for Well-being事務局(後安)

▼主催
文化庁/一般財団法人たんぽぽの家
文化庁委託事業 「令和6年度障害者等による文化芸術活動推進事業」

▼事前のお願い
ライブ配信を申込された方には、「とけていくテクノロジーの縁結び」の2023年度の詳細な活動紹介は割愛した上で進行する旨を、予め伝え、開催当日までに以下3点の資料を視聴していただくように依頼しました。

① 2023年11月23日 初顔合わせ時のレポート
https://art-well-being.site/report/979/

② 2024年2月15日 公開実験ワークショップの動画
https://youtu.be/ik4iAhX1KHw

③ 2024年3月15日-20日 展覧会で展示したパネル内容
https://art-well-being.site/archive/1148/

トークセッション冒頭では、事務局(後安)よりArt for Well-being全体の事業紹介を行ったあと、小林茂さんに進行をバトンタッチしました。11月23日の初顔合わせ時のふりかえりからトークセッションが始まりました。

初顔合わせ、何もしゃべらずに即興セッションが始まる

小林:(②の動画の冒頭、5分ほど見る)今見ていただいたのが、初顔合わせの場面でした。この辺りから一緒に振り返りをしたいと思います。

新井:部屋に入っていって、佐久間さんと本当に一言、二言もかわさないでいきなりセッションが始まったんですね。僕と板坂が会場入りして…。車椅子の後ろにごちゃごちゃとものが、袋とかついたままなんですが、ホントはあそこに尿瓶とか、そういうものが入っているんです。それをそのまま下ろしもしないで、セッションが始まってしまったという感じを覚えています。ほとんどしゃべらなかったですね、挨拶もなくて。言葉で挨拶する代わりに、三人でとりあえずやってみたという、出会いがしらの映像ですね、これは。

佐久間:僕のほうが先に会場に着いてウォーミングアップをしていました。宮本武蔵じゃないけれども、先に着いているほうが焦れるとまではいかないけど、悩むんですよね。来たら何から始めようかなぁ、とか。それぞれ自己紹介するのが普通だとは思うんですけれども、そういう感じで始めるのは違うなぁと思いました。僕の直感としか言いようがありませんけれども。
新井さんも、僕も、いろんなところでワークショップをしているんですが、始まり方は本当にいろいろで、自己紹介からのときもあれば、いきなり踊り始めることもあります。そのときのひらめき、直感。今回は僕はちょっと喋れないなと感じました。

板坂:私は、着替えてトイレから戻ったら2人がもう、刀をぬいてやっていたので(笑)、どうしようかと思ってねぇ。様子を見ながら、すぅーと入っていきました。

新井:筧さんにも何も挨拶せずに、失礼しました。

筧:本当ですよね(笑)。僕は椅子に座ることしかできなくて、あ、始まったということで、最初は、ずっと見とれていました。

佐久間:補足説明的に言うと、新井さんと板坂さんは、筧さんと小林茂さんに会うのは、まったく初めてだったんですよね。

新井:リアルにお会いするのは初めて。

佐久間:僕は、筧さんや、新井さんと板坂さんとは会ったことがあります。また、たんぽぽのみなさんとか、全員知っているのは僕だったと思います。
さきほど映像で流してもらったのは、多分5分ぐらいでしたが、何もしゃべらずに始めた最初の即興は30分か40分続きました。けっこう長いわけですよ。
やっぱりこの30分ぐらい、結構じっくりと真剣勝負というか、感じ合うという試みは僕はすごく必要だった気がしています。
新井さんのやっていることは見聞きしていたし、会ってあいさつ程度に話すことはありましたが、落ち着いて長く話をしたのは、1か月ほど前、新井さんのお宅にお邪魔したときが初めてです。
どうしてダンスを始めたかとか、野口体操の話とか。二十歳くらいからのことをずっと話をして。いろいろなことを共有できるなと思ったけど、ちょっとしたやり方、感度とか、感じ方は違うという可能性はあるんです。
新井さんの体がどれぐらいどう変化しているのか。その上でどういうことができるのか。新井さんに僕の体をどう感じてもらえるのか。僕のやり取りを新井さんに判断してもらうことも必要だったので、そういうことも込めた30分だったのかなという気がします。

外側から感じて、内側から感じて

新井:僕も佐久間さんも「ダンス」という身体表現をジャンルは違ってもやってきたわけです。言葉でしゃべるということもとても大事にはしていますが、やはり実際に体を動かして、何か場を一緒につくってみるときに、言葉にならない対話みたいなものの情報量がものすごくたくさんあって。
我々がやっているいろんなやりとりが、すごく分かりやすくはっきりと、見ている人に伝わることもあれば、そうでないこともあるように思います。例えば、ほんのちょっと、皮膚が車椅子でくっついていたりしましたが、佐久間さんが押しているな、とか、僕が押し返しているとか、板坂さんがちょっかいを出しているとか。いろんな体の中身の動き、触れ合って重さをあっちにやったりこっちに取ったりしているとか、そういうことがありました。
まずその、言葉にならない対話みたいなものをまずは筧さんに見てもらって。それを、ほかのデバイス的なもので動きや音にするとか、そういうことなのかな、と思ったので。あのときまず、やりとりを見てもらうことが、僕はスタートとして有り難かったかな、と思っています。
そのあと1回お話して、筧さんを巻き込んで、一緒におしくらまんじゅうみたいなことをしましたね。実際に何が起きて、こんな動きになったのか、みたいな。

筧:そうなんです。おっしゃるように、今回たんぽぽの家からお話しをいただいたとき、AIとかVRとか、最初から技術を決めてとりかかるのではなく、1回、佐久間さんと新井さんのセッションを見て、感じたことをもって「何かつくってください」と言われたんです。
とはいえ、丸腰でいくのもどうかなと思って、あのとき結構いろんなデバイスを持っていったのです。行ってみると、予め用意することなんで絶対に無理だとわかりました。そこで延々と悩んだんです。
確かに、セッションのときは、外から見させてもらって、そのあと内側というか、その後、一緒に仲間に混ぜてもらって。体を使っておしくらまんじゅうだったりとか、影絵もあのとき一緒にやらせてもらったのかなと思います。外側から感じて、内側から感じて、という体験はすごくよかった。

ダンスでもリハビリでもないクリエイティブな運動

新井:僕が昨年11月23日の段階では、歩行器を使って歩くことができたんですよね。今、5月の段階では、できなくなってしまいました。11月の段階で、ある条件の中では、立って歩くことができるのを佐久間さんに見てもらい、なおかつ、佐久間さんが歩行器の代わりに、僕の体を支えて人間歩行器のようにしてちょこちょこ歩いたというのが、ぼくは非常に新鮮な体験だったんです。そのあと、寝返りも打たせてもらいましたね。
歩行も寝返りも、日常の作業療法士さんとかがサポートしてやってくれているケアの動きですが、それを佐久間さんがリハビリ的なケアの行為でも、完全にダンスで表現に向かってやるのではなく、あわいの非常に不思議な面白い体への接し方をしてくれて。この2つの体験が、単純にとっても楽しかったんです。リハビリで頑張ろうということではなく、とてもクリエイティブな時間だったと思います。

板坂:人間歩行器は私の夢です。

新井:そうです、ワークショップに行く前に、板坂が、これをやれやれとけしかけて…。

板坂:佐久間さんなら行けるかなと。象みたいに連なってみんなで歩きました。このプロジェクトそのものが、歩くとか、立つとか、座るとか、そういった日常の単純な動きを大事にしていいんだと。
なのですごく面白かった。新井さんの体を通してそこから問い直してみたい、と思っていましたので、あの日はワクワクしていました。

佐久間:新井さんと板坂さんはいろんなところでワークショップをしていますね。新井さんが発病する前から行っていると思いますが、体に障害のある人といろいろされましたか?

新井:いろんなタイプの方がいらっしゃいましたね。肢体不自由で人工呼吸器をつけて気管切開している子どもさんともやったことがあるし、身体障害としては軽度で素早くは動けない人、そういう方もいたし。そういう意味では。幅広くやったかな。
その人たちが本当にゆっくり立つとか相手と支え合って、ある動作をすることを僕も大事に思って、そこに面白さや美しさを感じるようにやっていました。ただ、いざ、自分がそうなってみると、正直に言えば、別だったかなと思います。

佐久間:さきほど理学療法とは違うアプローチで、ダンスでもリハビリでもないことをと新井さんが言ってましたが、新井さんが病気になる前も、ワークショップをしたときに同じようなことを感じながらやっていませんでしたか。

新井:そうですね。はじめから療法的なことを狙っていたことはないけれど、やっているときにこの子の体が、実はこうことをやったら伸びたとか。いわゆるリハビリの時間でなく身体表現のワークショップとして、面白いなとか、そういう気持ちをどう引き出すかということをやっていると、結果として身体機能の拡張になっていたり、今までやったことのないことをその人がやってみようという気持ちになったりしたことは、ありました。理学療法士からは、その動きが、よりよくなっているかも、という話はありましたね。

佐久間:理学療法士さんとは全く別のアプローチでいくわけですよね。新井さんと板坂さんの場合も…。

新井:ただ、あまり狙ってやったわけではなかったですね。

佐久間:自分は理学療法士でもなく、専門的に介護を習ったことはありません。理学療法の専門の方から見たら、どんなふうに思われているのかな、でたらめなことをやっていると思われているのでは、という心配はありながらも、僕も同じように、現場で、いろんな障害のある人のワークショップをしてきました。
回を重ねるごとに、自分なりのダンサーとしての体の微妙な動かし方とか、やり取りみたいなものが、徐々に見つかることがあります。試行錯誤のなかで、例えば呼吸器をつけた自分からは動けない子どもをお腹の上に乗せて、その子の微妙な体のバランスを感じながら、シーソーのように動いてみたときに、普段介護している人から「あ、そういうやり方があるんですね」とか、「なるほど」と言ってもらえるとものすごくホッとします。「やってることもまんざら意味がないことでもなかったし、新しいやり取りも発生しているんだな」と。「勇気をもって、新たなトライができる」と。結構経験を積み重ねていったわけです。
この日もこれまで色々と試してきたことを、この新井さんの体で試せるんだ、と。今までやってきたことがすごくいろいろできるなって感じました。じゃあ新井さん、どういう感じになるんだ、と、僕の中ではすごく、そういうことがありました。この日はそう思いました。

こういう、微妙な、重さみたいなもののやり取りで我々は会話をしている

新井:重力が体にどう作用して、結果としてどんな動きを生み出すのかということを、佐久間さんは直感的にわかっている人だなと思いました。
野口体操という僕がベースにしているメソッドも、筋肉でむりやり動かすのではなく、体の力を抜いていくと、液体的に流れる。その流れのきっかけを、重力によって、重さがどう傾いて流れまとまるとか、ちらばるかということを、最小限のコントロールでやっていく体操ですが、佐久間さんはそのことを身体言語として持っている人だと思っています。動かされていて、痛くなかった、ということがまずはありました。僕がこう動きたいけど、筋力低下で動けねぇといったら、待っていてくれて、次の動きがくると、そこはすごく安心感があったことを覚えていますね。
こういう、微妙な、重さみたいなもののやり取りで我々は会話をしている。ここを可視化というか、外にもわかるようにできたら面白いよねというようなことを11月のセッションでは話したように思います。

板坂:日々の介護の中で、(新井)英夫さんを持ち上げたり、どこかに座らせたり、そういう移動のときにやっぱり重さは感じざるをえないですよね。相手が立てないのであれば、なおさら感じるわけです。足の一歩、二歩の移動の中に、ものすごいこう、なんて言うんですか、重さの宇宙のようなもの? この一歩、二歩の中にすごく世界がつまっていると思っています。

新井:一歩、二歩の間に、1.1とか、1.12とか1.123とか、微分化したような…、力がないからズドンと次の一歩を踏み出せないので、危うく揺れているとか、プルプルしているみたいのが、小数点第何位みたいな、すごく細かいことなんだろうねぇ。
ほんと今は、立てないんですが、やっとこ立っているときは、風がふけば倒れそうになることを体験しましたよ。
普通の街中の風なんだけど。よくみんな立って歩いているなって思いました。脇の木を見ると、木は揺れていて、ああ、木も揺れているわ、でも根っこがあるから倒れないけど、俺はもうやばいよなんて。弱いってことを逆に考えると、ちょっとの力で影響されちゃう。それってネガティブな捉え方もあるけれども、センサーとしては感度が増している状況、と捉えることもできます。
そっちのほうに佐久間さんが歩み寄ってくれたり、その辺りを筧さんが拾ってくれたり、ということが、たぶんこのプロジェクトの肝というか、面白みのところだったんじゃないかな、と思います。より高く、より強く、より速く、の真逆という…。

弱いということは、動きの可能性でもある

佐久間:そうですね、「歩く」、がずっとテーマになっているというか一番難しいんですよね、歩くのが。
僕のワークショップでは、ゆっくり歩く、というのをいつもやっています。本当に、ゆっくり歩きながら、足を置いて、次の足を置いて、重心移動して、足を上げて、前に置いて、重心移動していく。最近のレッスンで、自分で言って自分でなるほどと思った言葉に、「歩いて、どの瞬間でもとまれるように歩く」というものがあります。

新井:いいな。激しく同感なんだけれど…。

佐久間:両足を着いていても、上げる瞬間でも、地面に着く瞬間にでも、どこでも止まれる歩き方をしてください。あらゆる瞬間でバランスが取れているように歩く。

新井:佐久間さんといつか、バランスがとれているのとバランスを崩しやすいのは同義という話をしましたね。
さっき言ったように、弱いということは、実は動きの可能性がある…。外部からの刺激で、倒れたり、よろけるとかは、「動きやすさ」と捉え直すこともできる。もともと野口体操の考え方ですが、まさに佐久間さんの言っていることです。バランスが微妙に取れている状態は危うい状態なんだけど、非常に少ないエネルギーで形を変える、動ける、そういう可能性に満ちた状態なんだ。

佐久間:うん。

新井:今の言葉を僕のところにきている新人ヘルパーさんすべてに聞かせたい。介護されて痛いんだよな、ほんとに。若い人に言っているのは、「力で解決しない」ということ。

佐久間:そういうのを可視化できないだろうか。

テクノロジーは何をすくい取らないといけないのか

筧:力の話や液体、流体の話が出て、あの時は確か、圧力センサーや触覚のデバイスがいくつかあったので、その話もしましたね。床に圧力センサーを置いてみようか、とか。
ただ、触覚センサーの持っている分解能は一定の刻み幅があり、それより細かいものは検出できないんですが、みなさんの動きはそれよりはるかに繊細で…。有機的に変化していくものに対して、どういうふうに可視化するか、テクノロジーが何をすくい取らないといけないのか、というあたりが、すごく難しいように思えたんです。すでに御三方の動きにかなり現れていたと感じましたので、その時は、やっぱり悩みましたね。
最初に、1回目を見させてもらって、3人の系の中で、すごく緊張感のある関係が外にいて見て取れたんです。その緊張感が、3人の体の関係の中にむしろ増幅されて立ち上がっているようにも見えたんです。
その微妙なバランスみたいなものがあるのは理解できるし、出来上がった3人の動きは、その微妙なバランスに下支えされていることも、肌で、目で感じることはできたと思うのですが、皆さんの感覚としてはそこは伝わっていない、という感覚があるんですか。
自分たちの体がそれを表しているという、増幅器としての体では足りない、という問題意識があるのか。いや、実はそこは私たちの体は伝えているんだけどね、そういうことではなく、、、ということなのか。
そこのところがどうなんだということを、最初からずっと捉えたくても、捉えにくいところだったんですよ。

佐久間:もちろん伝えているんですけど。そして筧さんみたいな方には分かってもらえるんですが、やはり多くの人にはなかなか分かってもらえないということがあるんですね。

新井:僕の体は自由さがなくなっているというところで言えば、もうひとつあって、この2回目(2月8日に行ったリハーサル)のときに、こうやってちょっと体を傾けると、センサーがレインスティックの傾きに置き換えて、音になって戻ってくるというのがありましたよね。あれはむちゃくちゃ、楽しかったです。
僕は残念ながら、以前動いていた記憶どおりに自分の体が自由に反応してくれない。ただその中で微妙に動く楽しみも見つけている。なんていうのか、微分化していく方向なんですよね。そのときに思ってもみなかった想定外とか、自分はここを使っていなかったなというところに、導いてもらえるモノがあると嬉しくて。あのときに、こういうふうに上半身をちょっとだけ傾けると、ざーぁという音で可視化される、音化されるというか、可聴化される…、それが、面白かった。
先月から、リハビリのときに言語聴覚士が入ってくれているんです。呼吸器のリハビリや、呼吸を保つために、ストローで水をぶくぶくやってくれというのがあります。僕が、これ音が出ると楽しんだよねと笛を吹き始めたら、新井さんは笛を吹いてもらえればいいですと言われてしまった(笑)。そういうふうに、思わずやってしまうという、遊びの部分とか。機能を助けるというよりも、思わずその遊びに誘い出せられるみたいなところは、テクノロジーに助けてもらいたい。そう思っているところです。

佐久間:今、新井さんが言った、微妙な動きが何かに変換されたり、増幅されたりする装置によって、新たな動きや遊びが引き出される。そこもやりたかったことのひとつかなと思います。
ただ、それは、ひとつ前の話題に出てきた、「新井さんと板坂さんと僕とで細かいやり取りをしていて、その3人では、何かを感じあってやりとりしている。筧さんにはそれが見えかけているが、もうひとつセンサーか何かをかますことによって、起こっていることがより外部にも可視化される」という話とは、少し別のことかなと思います。
このプロジェクトではどちらもやりたいですが、いったん分けて考えたほうがいい。

筧:そうですね。3人の系の中で成立しているものを、どう外に開くかということを、1回目の11月のセッションのとき、僕は強く感じていました。
ただそのなかで、最初に無造作に使われた紙風船だったり、たまたまだったかもしれないですが、車椅子についていた鈴とか、床の音だったり、あらゆる環境のエレメントが、そこの関係を外に開く役割を果たしていたということも、外で見ていて強く感じていました。
同様の役割をセンサーが担うということもあるし、もっといえば、環境のエレメントを引き出すさらに別の仕掛けやモノを持ち込むことも、外に開く手がかりなのかなとも思ったところです。
あとは、3回目(2月15日の公開実験)が終わったあとに、観客のどなたかがおっしゃっていたのですが、新井さんが試していることも外から見ると、ある種、演じているように見える、という話があったかと思います。
皆さんがさっき話していたように、1回目は探るということに特に注力しながらも、そこには偶発的な関係があって、表現に昇華されていったように思います。いろんなやり取りがあるんだけど、それが高度に同時多発的におこると、外から見ると、とてもきれいな、表現されたものになっていく。どこが偶発で、どこに気づきがあって、どこが意図的な表現なのかという境が、3人のとても高度なやり取りの中だと見分けがつかなくなっている。
それはいいことでもあるのですが、外から見る人にとっても、そこの偶発性に気が付きたい、そこでの意識を共有したいというのもあるのかなと思います。
ですから、1回目の割と早い段階で、そこにどういうふうに即興的な刺激を外にも伝わる形で放り込めるかというのが、テクノロジーというか、僕の視点での課題としてあったような気がします。

環境との対話としての即興

佐久間:新井さんと僕は、お互いにちょっと風変わりなダンサーであると思うのです。僕自身、自分の体だけでダンスをするのではないと思っていますが、それは、新井さんの話に出てくる野口体操の重力やバランスの話や、「体奏家」として音やモノを使ってワークショップされていることと共通点があるように思います。
今このプロジェクトでも、いろいろな道具とか、音とか、人の関わりとか、そういうことが二人とも、ベースにあって、そのことと筧さんが関わることで、反応することもあるんだろうと思います。
そのあたりに関して、新井さんの感覚や大事にしていること、新井さんにとって、音とかモノとかはどういう存在なのか、もう一回改めて聞きたいなと思います。

新井:我々の体の感じ方とは別の軸として、もうひとつ、「即興」というキーワードがあるかと思います。
佐久間さんはジャワ舞踊ということで、ある意味、振り付けがある世界もしっかりやっている。一方で、障害のある人とのダンスのセッションなどでは、振り付けありきじゃなく、即興のセッションもだいぶ重ねていると思います。
即興演奏する人や即興ダンスをしている人に、どうやって即興演奏してるんですか?即興ダンスをしているんですか?とか、直球の質問はあまりしたことがないんですが、いろいろな方法があると思うんですよ。自分が習ったフレーズをうまく組み合わせてやっているという人もいれば、全くのでたらめをまじめにやってます、という方もいるかと思います。
僕がどうやって即興をしているかというと、環境との対話なんですね。自分が地面を踏んでジャッリッという音とか、その「ジャッリッ」という音のイメージで踊ってみるとか、建物だったら、向こうに扉があってそこから風が吹いてきたら、その風に舞うような木の葉になってみようとか。あらかじめ自分の中にプログラムがあって、それを起動して、走らせて何かをやるのでなくて、あくまでもその場に体を置いて、外から入ってきた情報を取り入れて、もしくはそれをまた視覚的に目に入ってきたものを動きに変えるとか、もしくは動きが音を生んだりだとか、そういった対話をしていって、その対話を楽しんでいることが、僕の場合は即興です。
海外だったりすると、こういうやり方で空間と環境で踊るということをサイトスペシフィック(site-specific)という言葉で、テーマにしている人がいますけれども、そういうことに近いんです。
あらかじめダンスで、これを表現したいというのもあるけれども、佐久間さんがされているセッションや、障害のある人とやっているセッションは、環境のなかで自分はどうふるまうか、ふるまった結果によって環境がどう変化したか。それをまた、フィードバックして、自分がどう感じたか、ということをずっとやっているように思います。
だから出力の前に、入力がめちゃくちゃ大事、ということです。入力するために、自分の中のあらかじめ、こうじゃなきゃだめとか、あらかじめこうしたい、というのはなるべく抑えるというか、空っぽにしておいて、風通しのよい状態にしておくと、うまくいくというのが僕のやりかたなんです。
そうしていくと、いろんな表現が、ダンスだけではなくて、モノとのかかわりも出てきます。体を使ってやっているから、体奏家・体を奏でるという言い方をするのがしっくりくるな、というのがここ20年くらいのことです。

佐久間:体で何かを奏でるというより、自分自身の体を奏でるのかな。

新井:そういう感じかなぁ。体で奏でているのかもしれないし、体を奏でているのかもしれない。手段であり…なんだろうなぁ。

佐久間:外のものを奏でるより、体自身が奏でる、音であり、音楽が始まる、という感じかな。

新井:このプロジェクトで、「ばんばんさん」というアーティストネームを新たに授けられた板坂さんは、どうですか。

板坂:本当に…もう…。
新井さんとともに私も野口体操をベースにしていますが、佐久間さんと一緒にやったときに、なんて言うのかな、中身がない感じ。本当にお手本が自然、先生は自然、という感じがしました。何か佐久間さんの表現をしようとか、新井英夫さん自身もきっとそうだと思いますが、何か自分の中の表現をしようというより、外にあることを取り入れている、という感じがしました。私自身の中でも踊らないといけないという考えは全然なくて、その場で起こったことに、ただ自分の体を合わせていた感じが常にあるのが、本当に面白いなと思っています。そこに筧さんの装置も環境の一つとしてそこにあり、でも時々、よく絡んできやがってぇ、みたいな(笑)。
刺激として…、なんなんでしょうねぇ。

ダンサーにとっての環境とはなにか、そこにテクノロジーはどう介入するか

筧:僕にとっても「環境」ってすごく重要なテーマで、アンビエント、ウェルビーイング、環境と呼応するようなテキスタイルを作っていたりします。環境のなかでテクノロジーがどう介入できるか、そもそも環境そのものをテクノロジーがつくることができるのか、環境ってそもそも何だっけ、等々、僕もよく考えるんです。いわゆる自分の感覚の世界の届く先の境目を「環境」と呼ぶとすると、そこにある空間全てが環境というわけではなくて、その周りにあっても気が付かないものは、自分にとっては環境になりえない。お話にあったように、適度に刺激があったり、アクセスすることができる、関係を持てるものを環境と呼べるのかなと思っていたときに、3人があの空間のどこまでを環境として捉えていたのか。あるいはその環境をより広げるとか、周りからその環境に入ってくることがいかに可能かということが、僕のものづくりや技術開発にとってもすごく大事なテーマです。お客さんが、私たちがこの3人のパフォーマンスの環境になり得ていると実感できるということはすごく幸せな状態なんじゃないかと思っています。3人にとってはお客さんも環境になっていたのかもしれないが、今回のトライをして、風がふいてきた瞬間とか、自分たちがその環境に対して少しでも関係を持っているということが実感できるようにしようというところが、今回でいうと、最終的にはテクノロジーの開発で大事なところだった。僕も環境とは何かという問いを、皆さんにお聞きしたいと思います。

佐久間:あのときに二酸化炭素濃度のモニターもあったとおもうのですが、普段、いろんな環境に感覚をとぎすましながら、関わりを見つけて、そこにアプローチして何かが起こり、また、そこからやり取りを進めていくという踊りをしています。けれども、二酸化炭素濃度のことはあまり考えたことがありませんでした、きょうは二酸化炭素が多いと感じながら踊るいうことはなかった。
そういった装置が出てくると、二酸化炭素がこういうことになると増えているんだとか、そういうことが意識の中に上ってくるというか。そういうのをテクノロジーという言葉がいいのかどうかはわかりませんが、筧さんがひとつ、そこへ装置を置くことで自分の新たな感覚が生まれて、じゃあ二酸化炭素濃度の数値を上げるために動いてみようか、ということも起こり得ます。テクノロジーも筧さんの何かああいうことによって、自分の環境の感じ方が少し変わって、そういうことはあるのかなと思います。

筧:逆にめちゃくちゃやりにくい環境というのはありますか。

新井:ホワイトボックスとか、完全なブラックボックスのようなところで何かやれと言われると、結構今の僕には大変ですね。自分がすべての情報になるというか、自分がやったことしか起きないとか、計画したことしか起きないとしたら、やろうとは思わない。

佐久間:いろんな意味で、僕は何か、マゾ的にいろいろな窮地に立つことが多いので、非常にやりにくいところに追い込まれて、そういうやりにくい場で身もだえするダンスも出来るとは思うんですけど。そこで困っている佐久間を見るのが楽しい、そういう人たちもいるので。かなりひねくれた心境になればです。
でもやはり、自分のアプローチしたことが何の意味も持たないような空間に放り込まれると、じゃあ、踊らなくてもいいのかな、とも思います。ちょっとうまく言えないけれども。

足していくテクノロジー、引いていくテクノロジー

筧:テクノロジーのアプローチとして、既存のものを拡張して、使われていく、使っていく、という足し算のアプロ―チと、逆に、今のものに対して新しい制約を作り出していく、という、よりマイナス、引き算の方向性で関わるようなテクノロジーの、2種類の方向性があるように思っています。
一般的なテクノロジーを導入すると出来ることが増えて、どんどん拡張されていく方向に話が行くのですが、上手く制約を見つけることがむしろ刺激になって、表現につながっていくのもあるかなと思っています。その辺の考え方は今後こういったところにテクノロジーを入れていくときに、重要な視点になるのかなと思いました。

佐久間:ちょっと話がずれるかもしれないんだけれども…
去年(2023年1月)、新井さんとのプロジェクトの第一弾、筧さんはまだ参加していなかったときに、『OriHime』というロボットを使って、新井さんと2回セッションをしたことがあります[ふりかえりレポート]。
そこで我々は苦しんだわけです。最終的には苦しみの中から、いろんな楽しみを見出したわけです。
例えばスイッチが1だと手を挙げるとか、2だと首がまわるとか。いろいろあらかじめセッティングされた反応するボタンみたいなのがあるわけ。そういうのは普段、僕がやっているダンスからいくとかなり隔たるわけですよ。ある信号に対して一つの動きしかしない。それは自分が普段やっていることからいうと、けっこう真逆なことなわけです。普段は、さっきの微分の話ではないですが、一方と一方の間にもっと無限にいろんなものがあるんじゃないか、とか考えてやっているので。
「はい」と言うにしても、「はーい」なのか「はい!」なのかで全然違うのに、これを押すと手を挙げるだけかと…。このロボットはいろいろやりにくいな、というふうに最初は思いました。

筧:でもそこから、制約をもって何かプラスに変えていく、ということもできた?

佐久間:そこからいろいろ遊んでいく。このロボットを使ってどう遊ぼうかなとか、いろいろ試しました。

新井:僕はOriHimeのときに、体の代わりだと思うと、乏しいなぁと思ったんです、動きとしては。そういう設計だからしょうがないと思うんだけれども。
だけど、OriHimeを開発した吉藤オリィさんは、もともとは、体の動けない友達のためにつくったそうで。ダンスを踊らせようという設定自体が我々の無茶振りなのだとも思います(笑)。
だから、踊らせようではなく、僕の枕元に置いたんですよ。寝っ転がっている友達のために開発したということなのだから、僕も寝転がって、Orihimeを自分の顔の近くに近づけて。遠隔で佐久間さんが操作しているという状況で。そのときにOriHimeが僕に絡んできて、手をぺんぺんとしてきたことがあって。それが僕のほっぺたを撫でたように感じたんですね。寝転がっていて、視界が狭まっているところに、ネコとか小動物が来てくれてぺろぺろっとしてきたように感じた。小動物が遊びに来たり、人形遊びみたいな楽しみに置き換えられた。それが、すごいよかったんです。向こうにいる佐久間さんの存在、同年齢のおっさんだというのを忘れて、「かわいいな、OriHime」みたいな…。

佐久間:あのときはOriHime以外に人形を登場させたり、いろいろやるうちに楽しいことも起こったんだけど、今回筧さんとやるのは、OriHimeのようにテクノロジーありきの出発じゃなくて、こっちの動き、こちらからの出発で、何かテクノロジーの人に考えてほしいということで、始めたわけですね。

筧:そうですね。確かに。
そこでテクノロジーの異質さとか、速度の違いだったり、滑らかさの違いだったりというのが、今回の場でもうまく作用することもあれば、まったくギャップが刺激にならないということもあったわけですね。
さっきの拡張していく方向、より届くようにするとか、一方でより届かなくするとか、ぎこちなくするという別の探索が生まれていくというどちらにも作用し得たと思います。
やっぱり、プラスにしていくほうが、今回は難しかったです。とても濃厚な重厚な関係性があったので、それをさらにテクノロジーで増幅してくださいというのは、相当難しいお題だったと思います。

自分の存在が消えていくということをどうやって引き受けていくのか

佐久間:1か月前、板坂さんと新井さんの家で話をしていたとき、この先、新井さんの体がどんどん動かなくなると、テクノロジーの力を借りていくことになるが、例えば、アバターになって、自分がある空間に入って踊るということもあるけど、そういうことはしたくない、それでは、満足はまだ得られない、どこまでいけるか分からないけれども、体を使い続けることもしてみたい、というようなことを話しました。
だから、1回目の11月のやりとりも、濃厚と言えば濃厚ですが、でもやっぱり、どんどん、新井さんの体が動きづらくなっているということでいうと、その前に新井さんと3人でやっていたらもっとちがう、ダイナミックな、ちょっと違う関係性にはなっていたと思うんですよね。
でも、新井さんの体が、2回目・3回目にあたる2月ではさらに変わっていて、今年またどんどん変わっていく中で、テクノロジーの関わりもどんどん変わっていくというか、我々のできることも変わっていくと、テクノロジー側の筧さんのアプローチもどんどん変わっていくだろうし、そういうことが起こっていくといいなとは思いますね。

新井:やっぱり2月から今、3ヶ月位経ちましたけど、だいぶ変化があります、かなり。
今日も、本当に、朝、マウスの操作が右手で全然できなくなっちゃって。今日、パソコンを使うのは大変かなと思っていて…。今、回復はちょっとしたんですけど。衰えるとか機能を失うということに対して、自分がどうやって受け入れていったらよいのかというのが、実は、課題としてあるんです。これは、このプロジェクト自体が今年度も継続してまたこのメンバーでできるということなので、この僕の現状をつぶさにお伝えしておいて、今年度も継続したい。いろんな意味で、体が変わると気持ちも変わってしまう。
アバターになって踊るということについては、僕はあまりことばでうまく説明できないけど、そっちじゃなくて生身の体でもって、できることを探りたいというのは変わらないんです。だからなんですかね、例えば、僕は3ヶ月後だともっとできなくなっている。だから今、できることを使って最大限のことをやってみよう。できなくなった自分に対する架け橋ということではなく、今できることを貪欲にやっちゃうということなんです。それも意味があるんです。「今しかない」という点では。
ALSというのは、良くも悪くも先が見えているんです。次に、これができなくなるということはわかっている。そこに対して、次、これができなくなるな…。これができなくなるのは生活的には苦しかったり、生きていくうえで不自由なんですが。
来たるべき喪失は、悲しいことで辛いことですが、、この、佐久間さん、板坂さん、筧さんとのプロジェクトでは、表現というフィールドでは、すごく変な言い方をしますが、喪失したからこそできることがあるよねと、面白がることをしたいんです。変な日本語を喋っているかもしれないけど。まだ自分では、うまく言葉にはできていないんです。自分では答えがまだ全然ないんですが、なんか、できないですかね、そういうことを。

筧:その時々に面白さを開拓しながら表現が立ち上がっていったということが、今回特徴的だったと思いますし、そういうことを次もやりたいと思っています。
体やコンディションが変わっていく中で面白がっていくことは、その都度、都度変わってくというのもあると思います。クリエイティブな意味でのある種の制約として、体の変化を、もし受け止めることができるようなら、テクノロジーを使うことも、クリエイティブな制約として受け止めることができ、とても素晴らしいことだと思うんです。
そうするとテクノロジーも変化の中で即興的に流動的に変わっていかないといけないと思うんです。
より滑らかな、よりなんというか…。フォローするだけでなく、時には、先回りしなければいけないような、どのように開発するかは、すごく重要になると思っています。また、難しい問題だと思っています。何を使ったらよいのかは、全く想像できないし、ただその流れの中でものが作れたら素敵だと思います。

新井:自分もそういうことを言っといて、具体的には何なのって、パッと思いつかないですが・・・。具体的には思いつかないですが、なんだろうね…。

板坂:言えることは、楽しいことがやっぱり好きですよね。「ワクワクしないと何も始まらない」という感じがありますね。「楽しいとはなんぞや」、なんですけれども。

新井:あとで使えない発言になるかもしれないですが、あえて言うと、最近自分が死んだらどうなるんだと考えるんです。人類みんな考えてきたことだと思いますが、元気なときはちっとも考えなかったんですよ、自分の死ということを。
他人の死は考えることはありました。友達死んじゃう、親戚死んじゃうとか、そういう事はありました。その悲しみをどう受け止めるかいうのは、それを宗教でなんとか出来る人がいれば、時間が解決する場合もあるかもしれない。コミュニティの中で悲しみを共有していくということができる人もいるかもしれない。
だけど自分の死を全然イメージしないで生きてきたなというのがあって。自分が消えていく、無くなっちゃう、体がどんどん動かなくなり、生きながらにして体が離れていく。感覚は残っているのですけれども。
その中で、自分の存在が消えていくということをどうやって引き受けていけば良いんだろうと思うんです、ほんとの話。ただ、アーティストとして表現行為に関わってきたから、それを自分が表現をしたり、人に見てもらったり、一緒につくっていく中で自分なりの引き受け方ができないかなと思います。例えば、機能を補ってほしいというのでなく、自分がどう生ききれるかという話なんです。非常に独りよがりな話で申し訳ないだけれど…。
ただ、このことは、ひょっとすると僕だけでなくて、いろんな人のヒントになるかもしれないと思っていています。僕は今、東京都現代美術館で展示をしているんです。その展示のネタに、今回筧さんにデバイスをつくってもらって天井に一緒に影絵をつくったじゃないですか、あれをほぼ再現しているんですよ。
11月のセッションでは、僕の機能が落ちていたんですけど、寝転がったら手を比較的自由に動かせるので、それを味わうためには影絵にしようという話でした。3月にはもっと力が出なくなってたんですが、ぎりぎりうちの天井に影絵を写して、スマホで簡単に撮影して、今、東京都現代美術館の展示会場で、2分間の動画を流しているんです。

翻訳できない わたしの言葉
2024年4月18日(木)-7月7日(日)
東京都現代美術館

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/mywords/

来た人に、影絵でそこに絡んでやってもらう。そうすると、動画として映し出される影絵にプロジェクターの光にリアルに手をかざして写して影を作ってもらう。影と影というのが、時間とか空間を超えて、リアルにセッションしているようになっていて。展示の脇に、気が向いたら、どんどんスマホでとって、SNSにあげてくださいという看板を立てたら、何人かがあげてくれたんです。ひょっとして僕の体がなくなっても僕の動いた影と誰かが踊ってくれるということを、何となく思い描いている自分というのは、なんかその瞬間ちょっと、気持ちが楽しくなったんです。
アバターともまた違うんだけども。影だと納得できるのに、アバターならだめなのか、自分でうまく説明できないけれども、僕の影と踊ってくれた人が新たな作品という動画を撮ってあげてくれる。それをまた自分が、見ている。
例えば1、2ヶ月後、もっと動かなくなった僕が、首しか動かなかったら、横顔でその影に重ねてみるとか、そんなことができたら、面白いなとちょっと思っていて…。なくなっていくけど、前の自分と重なっていくというふうに。なんなんでしょ、こういう衝動って。うまく説明できません。すみません、話がずいぶん混迷を深めるものを、残り時間間際に放ってしまいました。

佐久間:いい話。

新井:そういうことをおつきあいいただいて、いろいろと実験できたら、今年度おもしろいなって思います。
ひょっとしたら僕が、あんまり縁起でもないけれども、本当にリアルな話ですが、1年、2年以内に、自分で呼吸ができなくなるというタイムリミットが来る可能性が高いんですよ。それより先まで大丈夫かもしれないですが。平均的な数値でいうと、リアルにそういうタイムリミットがあります。そんなかで、何ができるか。
例えば僕がいなくなっちゃった後もこのプロジェクトが続いてるくらいのスパンで、遊びを考えてくれたら、すごい面白いかなって思っています。

筧:「遊びを考える」って、すごくいいですね。

新井:今オンラントークを視聴している皆さんもアイデアがあったら募集中、なんてね。本当に。

板坂:そうだね、とはいえ、体はあるわけじゃん、生きている間は。その体はどうしたいの。重さのある体はあるわけよね。

新井:やっぱり佐久間さんに、寝返りは極力打てる限りは打たせてほしいというのはあるかな。

佐久間:この間、最後に仮面を付けたり、板坂さんが紙風船を飛ばしたりして…。何かすごく思いもかけず、ダンスが立ち現れていたり、あれはすごく不思議なことだったので、次回は影とはまた違う、何か動かないけれども、重さのある人がそこにいる。そういうことで、生まれてくるダンスというかなぁ、そういう場はあると思うので、僕は、ぜひチャレンジし続けたいなと思います。

新井:「実験」という言葉はすごく大事ですよね。「やってみていい」ということがすごく大事だから、うまくいっても、いかなくても、遊び続けられたらすごく幸せだなと思います。

小林:あのぅ、そろそろ時間もというところで介入しなきゃいけないのがすごくつらいんですけれども…。

今日伺っていて、本当に興味深いお話しばかりで、どういうふうにすればいいのかは全く分からないのですが、きっと面白いことになるに違いないという確信だけはある気がしています。

この後、6月29日に、京都のFabCafeKyotoで、2月のリハーサルや公開実験など未公開映像を含んだ、本プロジェクトのドキュメンタリー映像の上映会とトークセッションがあります。そこでもまた続きの話ができたらと思います[上映会告知ページ]。

またそれを踏まえて、このプロジェクトを継続していくということは決まっていますので、今日この場にお立会いいただいた皆さんもぜひこの後の展開にもご一緒いただければと思います。僕からはいったんそれくらいにして、事務局の後安さんにバトンを渡します。

後安:何だか「とけていくテクノロジーの縁結び」というみんなで考えてつけたタイトルが、現実味を帯びてきて、テクノロジーがとけていくだけじゃなくて、体とか、いろいろなものがとけていくかもしれないけど、何かは残って、何かが活性化していくのは確信ができて、予言的な名前を付けたなぁということを思いながら聞いていました
本日はみなさま、ご視聴くださり、ありがとうございました。

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